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源氏物語と王朝の美
2024年3月20日(水)~5月19日(日)
2階・3階鑑賞室
『源氏物語』は、貴族を中心とする社会が全盛期を迎えていた平安時代中期、貴族の出身であった才女、紫式部によって著されました。この物語は、紫式部が宮仕えの日常で見聞きした貴族社会を舞台とし、主人公光源氏の栄光と没落、光源氏の栄華復活とその死後、子と孫にいたるまでの世界を描く長編物語です。当時の貴族を中心に読み継がれ、時の天皇にも読まれるほど好評を博しました。源氏物語が著されてから約150年後、栄華繁栄を誇った貴族は武士階級の台頭により次第に没落し、平安時代が終わりを迎えました。しかし、このころから物語を絵によって表現した絵巻物など、物語を主題とした創作が盛んとなり、公家や武家の教養としてますます普及し、日本文化を代表する物語として定着しました。本展覧会では、源氏物語を中心に、物語にまつわる作品や、当時の貴族文化を伝える作品を展示し、その雅やかな世界をご紹介します。


源氏物語の和歌の特徴
源氏物語和歌一覧(全795首)検索用
桐壺(9首)
限りとて 別るる道の悲しきに いかまほしきは 命なりけり
宮城野の 露吹きむすぶ 風の音に 小萩がもとを 思ひこそやれ
鈴虫の 声の限りを 尽くしても 長き夜あかず ふる涙かな
いとどしく 虫の音しげき 浅茅生に 露置き添ふる 雲の上人
荒き風 ふせぎし 蔭の枯れしより 小萩がうへぞ 静心なき
尋ねゆく 幻もがな つてにても 魂のありかを そこと知るべく
雲の上も 涙にくるる 秋の月 いかですむらむ 浅茅生の宿
いときなき 初元結ひに 長き世を 契る心は 結びこめつや
結びつる 心も深き 元結ひに 濃き紫の 色し褪せずは
帚木(14首)
手を折りて あひ見しことを 数ふれば これひとつやは 君が憂きふし
憂きふしを 心ひとつに 数へきて こや君が手を 別るべきをり
琴の音も 月もえならぬ 宿ながら つれなき人を ひきやとめける
木枯に 吹きあはすめる 笛の音を ひきとどむべき 言の葉ぞなき
山がつの 垣ほ荒るとも 折々に あはれはかけよ 撫子の露
咲きまじる 色はいづれと 分かねども なほ常夏に しくものぞなき
うち払ふ 袖も露けき 常夏に あらし吹きそふ 秋も来にけり
ささがにの ふるまひしるき 夕暮れに ひるま過ぐせと いふがあやなさ
逢ふことの 夜をし隔てぬ 仲ならば ひる間も何か まばゆからまし
つれなきを 恨みも果てぬ しののめに とりあへぬまで おどろかすらむ
身の憂さを 嘆くにあかで 明くる夜は とり重ねてぞ 音もなかれける
見し夢を 逢ふ夜ありやと 嘆くまに 目さへあはでぞ ころも経にける
帚木の 心を知らで 園原の 道にあやなく 惑ひぬるかな
数ならぬ 伏屋に生ふる 名の憂さに あるにもあらず 消ゆる帚木
空蝉(2首)
空蝉の 身をかへてける 木のもとに なほ人がらの なつかしきかな
空蝉の 羽に置く露の 木隠れて 忍び忍びに 濡るる袖かな
夕顔(19首)
心あてに それかとぞ見る 白露の 光そへたる 夕顔の花
寄りてこそ それかとも見め たそかれに ほのぼの見つる 花の夕顔
咲く花に 移るてふ名は つつめども 折らで過ぎ憂き 今朝の朝顔
朝霧の 晴れ間も待たぬ 気色にて 花に心を 止めぬとぞ見る
優婆塞が 行ふ道を しるべにて 来む世も深き 契り違ふな
前の世の 契り知らるる 身の憂さに 行く末かねて 頼みがたさよ
いにしへも かくやは人の 惑ひけむ 我がまだ知らぬ しののめの道
山の端の 心も知らで 行く月は うはの空にて 影や絶えなむ
夕露に 紐とく花は 玉鉾の たよりに見えし 縁にこそありけれ
光ありと 見し夕顔の うは露は たそかれ時の そら目なりけり
見し人の 煙を雲と 眺むれば 夕べの空も むつましきかな
問はぬをも などかと問はで ほどふるに いかばかりかは 思ひ乱るる
空蝉の 世は憂きものと 知りにしを また言の葉に かかる命よ
ほのかにも 軒端の荻を 結ばずは 露のかことを 何にかけまし
ほのめかす 風につけても 下荻の 半ばは霜に むすぼほれつつ
泣く泣くも 今日は我が結ふ 下紐を いづれの世にか とけて見るべき
逢ふまでの 形見ばかりと 見しほどに ひたすら袖の 朽ちにけるかな
蝉の羽も たちかへてける 夏衣 かへすを見ても ねは泣かれけり
過ぎにしも 今日別るるも 二道に 行く方知らぬ 秋の暮かな
若紫(25首)
生ひ立たむ ありかも知らぬ 若草を おくらす露ぞ 消えむそらなき
初草の 生ひ行く末も 知らぬまに いかでか露の 消えむとすらむ
初草の 若葉の上を 見つるより 旅寝の袖も 露ぞ乾かぬ
枕結ふ 今宵ばかりの 露けさを 深山の苔に 比べざらなむ
吹きまよふ 深山おろしに 夢さめて 涙もよほす 滝の音かな
さしぐみに 袖ぬらしける 山水に 澄める心は 騒ぎやはする
宮人に 行きて語らむ 山桜 風よりさきに 来ても見るべく
優曇華の 花待ち得たる 心地して 深山桜に 目こそ移らね
奥山の 松のとぼそを まれに開けて まだ見ぬ花の 顔を見るかな
夕まぐれ ほのかに花の 色を見て 今朝は霞の 立ちぞわづらふ
まことにや 花のあたりは 立ち憂きと 霞むる空の 気色をも見む
面影は 身をも離れず 山桜 心の限り とめて来しかど
嵐吹く 尾の上の桜 散らぬ間を 心とめける ほどのはかなさ
あさか山 浅くも人を 思はぬに など山の井の かけ離るらむ
汲み初めて くやしと聞きし 山の井の 浅きながらや 影を見るべき
見てもまた 逢ふ夜まれなる 夢のうちに やがて紛るる 我が身ともがな
世語りに 人や伝へむ たぐひなく 憂き身を覚めぬ 夢になしても
いはけなき 鶴の一声 聞きしより 葦間になづむ 舟ぞえならぬ
手に摘みて いつしかも見む 紫の 根にかよひける 野辺の若草
あしわかの 浦にみるめは かたくとも こは立ちながら かへる波かは
寄る波の 心も知らで わかの浦に 玉藻なびかむ ほどぞ浮きたる
朝ぼらけ 霧立つ空の まよひにも 行き過ぎがたき 妹が門かな
立ちとまり 霧のまがきの 過ぎうくは 草のとざしに さはりしもせじ
ねは見ねど あはれとぞ思ふ 武蔵野の 露分けわぶる 草のゆかりを
かこつべき ゆゑを知らねば おぼつかな いかなる草の ゆかりなるらむ
末摘花(14首)
もろともに 大内山は 出でつれど 入る方見せぬ いさよひの月
里わかぬ かげをば見れど ゆく月の いるさの山を 誰れか尋ぬる
いくそたび 君がしじまに まけぬらむ ものな言ひそと 言はぬ頼みに
鐘つきて とぢめむことは さすがにて 答へまうきぞ かつはあやなき
言はぬをも 言ふにまさると 知りながら おしこめたるは 苦しかりけり
夕霧の 晴るるけしきも まだ見ぬに いぶせさそふる 宵の雨かな
晴れぬ夜の 月待つ里を 思ひやれ 同じ心に 眺めせずとも
朝日さす 軒の垂氷は 解けながら などかつららの 結ぼほるらむ
降りにける 頭の雪を 見る人も 劣らず濡らす 朝の袖かな
唐衣 君が心の つらければ 袂はかくぞ そぼちつつのみ
なつかしき 色ともなしに 何にこの すゑつむ花を 袖に触れけむ
紅の ひと花衣 うすくとも ひたすら朽す 名をし立てずは
逢はぬ夜を へだつるなかの 衣手に 重ねていとど 見もし見よとや
紅の 花ぞあやなく うとまるる 梅の立ち枝は なつかしけれど
紅葉賀(17首)
もの思ふに 立ち舞ふべくも あらぬ身の 袖うち振りし 心知りきや
唐人の 袖振ることは 遠けれど 立ち居につけて あはれとは見き
いかさまに 昔結べる 契りにて この世にかかる なかの隔てぞ
見ても思ふ 見ぬはたいかに 嘆くらむ こや世の人の まどふてふ闇
よそへつつ 見るに心は なぐさまで 露けさまさる 撫子の花
袖濡るる 露のゆかりと 思ふにも なほ疎まれぬ 大和撫子
君し来ば 手なれの駒に 刈り飼はむ 盛り過ぎたる 下葉なりとも
笹分けば 人やとがめむ いつとなく 駒なつくめる 森の木隠れ
立ち濡るる 人しもあらじ 東屋に うたてもかかる 雨そそきかな
人妻は あなわづらはし 東屋の 真屋のあまりも 馴れじとぞ思ふ
つつむめる 名や漏り出でむ 引きかはし かくほころぶる 中の衣に
隠れなき ものと知る知る 夏衣 着たるを薄き 心とぞ見る
恨みても いふかひぞなき たちかさね 引きてかへりし 波のなごりに
荒らだちし 波に心は 騒がねど 寄せけむ磯を いかが恨みぬ
なか絶えば かことや負ふと 危ふさに はなだの帯を 取りてだに見ず
君にかく 引き取られぬる 帯なれば かくて絶えぬる なかとかこたむ
尽きもせぬ 心の闇に 暮るるかな 雲居に人を 見るにつけても
花宴(8首)
おほかたに 花の姿を 見ましかば つゆも心の おかれましやは
深き夜の あはれを知るも 入る月の おぼろけならぬ 契りとぞ思ふ
憂き身世に やがて消えなば 尋ねても 草の原をば 問はじとや思ふ
いづれぞと 露のやどりを 分かむまに 小笹が原に 風もこそ吹け
世に知らぬ 心地こそすれ 有明の 月のゆくへを 空にまがへて
わが宿の 花しなべての 色ならば 何かはさらに 君を待たまし
梓弓 いるさの山に 惑ふかな ほの見し月の 影や見ゆると
心いる 方ならませば 弓張の 月なき空に 迷はましやは
葵(24首)
影をのみ 御手洗川の つれなきに 身の憂きほどぞ いとど知らるる
はかりなき 千尋の底の 海松ぶさの 生ひゆくすゑは 我のみぞ見む
千尋とも いかでか知らむ 定めなく 満ち干る潮の のどけからぬに
はかなしや 人のかざせる 葵ゆゑ 神の許しの 今日を待ちける
かざしける 心ぞあだに おもほゆる 八十氏人に なべて逢ふ日を
悔しくも かざしけるかな 名のみして 人だのめなる 草葉ばかりを
袖濡るる 恋路とかつは 知りながら おりたつ田子の みづからぞ憂き
浅みにや 人はおりたつ わが方は 身もそぼつまで 深き恋路を
嘆きわび 空に乱るる わが魂を 結びとどめよ したがへのつま
のぼりぬる 煙はそれと わかねども なべて雲居の あはれなるかな
限りあれば 薄墨衣 浅けれど 涙ぞ袖を 淵となしける
人の世を あはれと聞くも 露けきに 後るる袖を 思ひこそやれ
とまる身も 消えしもおなじ 露の世に 心置くらむ ほどぞはかなき
雨となり しぐるる空の 浮雲を いづれの方と わきて眺めむ
見し人の 雨となりにし 雲居さへ いとど時雨に かき暮らすころ
草枯れの まがきに残る 撫子を 別れし秋の かたみとぞ見る
今も見て なかなか袖を 朽たすかな 垣ほ荒れにし 大和撫子
わきてこの 暮こそ袖は 露けけれ もの思ふ秋は あまた経ぬれど
秋霧に 立ちおくれぬと 聞きしより しぐるる空も いかがとぞ思ふ
なき魂ぞ いとど悲しき 寝し床の あくがれがたき 心ならひに
君なくて 塵つもりぬる 常夏の 露うち払ひ いく夜寝ぬらむ
あやなくも 隔てけるかな 夜をかさね さすがに馴れし 夜の衣を
あまた年 今日改めし 色衣 着ては涙ぞ ふる心地する
新しき 年ともいはず ふるものは ふりぬる人の 涙なりけり
賢木(33首)
神垣は しるしの杉も なきものを いかにまがへて 折れる榊ぞ
少女子が あたりと思へば 榊葉の 香をなつかしみ とめてこそ折れ
暁の 別れはいつも 露けきを こは世に知らぬ 秋の空かな
おほかたの 秋の別れも 悲しきに 鳴く音な添へそ 野辺の松虫
八洲もる 国つ御神も 心あらば 飽かぬ別れの 仲をことわれ
国つ神 空にことわる 仲ならば なほざりごとを まづや糾さむ
そのかみを 今日はかけじと 忍ぶれど 心のうちに ものぞ悲しき
振り捨てて 今日は行くとも 鈴鹿川 八十瀬の波に 袖は濡れじや
鈴鹿川 八十瀬の波に 濡れ濡れず 伊勢まで誰れか 思ひおこせむ
行く方を 眺めもやらむ この秋は 逢坂山を 霧な隔てそ
蔭ひろみ 頼みし松や 枯れにけむ 下葉散りゆく 年の暮かな
さえわたる 池の鏡の さやけきに 見なれし影を 見ぬぞ悲しき
年暮れて 岩井の水も こほりとぢ 見し人影の あせもゆくかな
心から かたがた袖を 濡らすかな 明くと教ふる 声につけても
嘆きつつ わが世はかくて 過ぐせとや 胸のあくべき 時ぞともなく
逢ふことの かたきを今日に 限らずは 今幾世をか 嘆きつつ経む
長き世の 恨みを人に 残しても かつは心を あだと知らなむ
浅茅生の 露のやどりに 君をおきて 四方の嵐ぞ 静心なき
風吹けば まづぞ乱るる 色変はる 浅茅が露に かかるささがに
かけまくは かしこけれども そのかみの 秋思ほゆる 木綿欅かな
そのかみや いかがはありし 木綿欅 心にかけて しのぶらむゆゑ
九重に 霧や隔つる 雲の上の 月をはるかに 思ひやるかな
月影は 見し世の秋に 変はらぬを 隔つる霧の つらくもあるかな
木枯の 吹くにつけつつ 待ちし間に おぼつかなさの ころも経にけり
あひ見ずて しのぶるころの 涙をも なべての空の 時雨とや見る
別れにし 今日は来れども 見し人に 行き逢ふほどを いつと頼まむ
ながらふる ほどは憂けれど 行きめぐり 今日はその世に 逢ふ心地して
月のすむ 雲居をかけて 慕ふとも この世の闇に なほや惑はむ
おほかたの 憂きにつけては 厭へども いつかこの世を 背き果つべき
ながめかる 海人のすみかと 見るからに まづしほたるる 松が浦島
ありし世の なごりだになき 浦島に 立ち寄る波の めづらしきかな
それもがと 今朝開けたる 初花に 劣らぬ君が 匂ひをぞ見る
時ならで 今朝咲く花は 夏の雨に しをれにけらし 匂ふほどなく
花散里(4首)
をちかへり えぞ忍ばれぬ ほととぎす ほの語らひし 宿の垣根に
ほととぎす 言問ふ声は それなれど あなおぼつかな 五月雨の空
橘の 香をなつかしみ ほととぎす 花散る里を たづねてぞとふ
人目なく 荒れたる宿は 橘の 花こそ軒の つまとなりけれ
須磨(48首)
鳥辺山 燃えし煙も まがふやと 海人の塩焼く 浦見にぞ行く
亡き人の 別れやいとど 隔たらむ 煙となりし 雲居ならでは
身はかくて さすらへぬとも 君があたり 去らぬ鏡の 影は離れじ
別れても 影だにとまる ものならば 鏡を見ても 慰めてまし
月影の 宿れる袖は せばくとも とめても見ばや あかぬ光を
行きめぐり つひにすむべき 月影の しばし雲らむ 空な眺めそ
逢ふ瀬なき 涙の河に 沈みしや 流るる澪の 初めなりけむ
涙河 浮かぶ水泡も 消えぬべし 流れて後の 瀬をも待たずて
見しはなく あるは悲しき 世の果てを 背きしかひも なくなくぞ経る
別れしに 悲しきことは 尽きにしを またぞこの世の 憂さはまされる
ひき連れて 葵かざしし そのかみを 思へばつらし 賀茂の瑞垣
憂き世をば 今ぞ別るる とどまらむ 名をば糺の 神にまかせて
亡き影や いかが見るらむ よそへつつ 眺むる月も 雲隠れぬる
いつかまた 春の都の 花を見む 時失へる 山賤にして
咲きてとく 散るは憂けれど ゆく春は 花の都を 立ち帰り見よ
生ける世の 別れを知らで 契りつつ 命を人に 限りけるかな
惜しからぬ 命に代へて 目の前の 別れをしばし とどめてしがな
唐国に 名を残しける 人よりも 行方知られぬ 家居をやせむ
故郷を 峰の霞は 隔つれど 眺むる空は 同じ雲居か
松島の 海人の苫屋も いかならむ 須磨の浦人 しほたるるころ
こりずまの 浦のみるめの ゆかしきを 塩焼く海人や いかが思はむ
塩垂るる ことをやくにて 松島に 年ふる海人も 嘆きをぞつむ
浦にたく 海人だにつつむ 恋なれば くゆる煙よ 行く方ぞなき
浦人の 潮くむ袖に 比べ見よ 波路へだつる 夜の衣を
うきめかる 伊勢をの海人を 思ひやれ 藻塩垂るてふ 須磨の浦にて
伊勢島や 潮干の潟に 漁りても いふかひなきは 我が身なりけり
伊勢人の 波の上漕ぐ 小舟にも うきめは刈らで 乗らましものを
海人がつむ なげきのなかに 塩垂れて いつまで須磨の 浦に眺めむ
荒れまさる 軒のしのぶを 眺めつつ しげくも露の かかる袖かな
恋ひわびて 泣く音にまがふ 浦波は 思ふ方より 風や吹くらむ
初雁は 恋しき人の 列なれや 旅の空飛ぶ 声の悲しき
かきつらね 昔のことぞ 思ほゆる 雁はその世の 友ならねども
心から 常世を捨てて 鳴く雁を 雲のよそにも 思ひけるかな
常世出でて 旅の空なる 雁がねも 列に遅れぬ ほどぞ慰む
見るほどぞ しばし慰む めぐりあはむ 月の都は 遥かなれども
憂しとのみ ひとへにものは 思ほえで 左右にも 濡るる袖かな
琴の音に 弾きとめらるる 綱手縄 たゆたふ心 君知るらめや
心ありて 引き手の綱の たゆたはば うち過ぎましや 須磨の浦波
山賤の 庵に焚ける しばしばも 言問ひ来なむ 恋ふる里人
いづ方の 雲路に我も 迷ひなむ 月の見るらむ ことも恥づかし
友千鳥 諸声に鳴く 暁は ひとり寝覚の 床も頼もし
いつとなく 大宮人の 恋しきに 桜かざしし 今日も来にけり
故郷を いづれの春か 行きて見む うらやましきは 帰る雁がね
あかなくに 雁の常世を 立ち別れ 花の都に 道や惑はむ
雲近く 飛び交ふ鶴も 空に見よ 我は春日の 曇りなき身ぞ
たづかなき 雲居にひとり 音をぞ鳴く 翼並べし 友を恋ひつつ
知らざりし 大海の原に 流れ来て ひとかたにやは ものは悲しき
八百よろづ 神もあはれと 思ふらむ 犯せる罪の それとなければ
明石(30首)
浦風や いかに吹くらむ 思ひやる 袖うち濡らし 波間なきころ
海にます 神の助けに かからずは 潮の八百会に さすらへなまし
遥かにも 思ひやるかな 知らざりし 浦よりをちに 浦伝ひして
あはと見る 淡路の島の あはれさへ 残るくまなく 澄める夜の月
一人寝は 君も知りぬや つれづれと 思ひ明かしの 浦さびしさを
旅衣 うら悲しさに 明かしかね 草の枕は 夢も結ばず
をちこちも 知らぬ雲居に 眺めわび かすめし宿の 梢をぞ訪ふ
眺むらむ 同じ雲居を 眺むるは 思ひも同じ 思ひなるらむ
いぶせくも 心にものを 悩むかな やよやいかにと 問ふ人もなみ
思ふらむ 心のほどや やよいかに まだ見ぬ人の 聞きか悩まむ
秋の夜の 月毛の駒よ 我が恋ふる 雲居を翔れ 時の間も見む
むつごとを 語りあはせむ 人もがな 憂き世の夢も なかば覚むやと
明けぬ夜に やがて惑へる 心には いづれを夢と わきて語らむ
しほしほと まづぞ泣かるる かりそめの みるめは海人の すさびなれども
うらなくも 思ひけるかな 契りしを 松より波は 越えじものぞと
このたびは 立ち別るとも 藻塩焼く 煙は同じ 方になびかむ
かきつめて 海人のたく藻の 思ひにも 今はかひなき 恨みだにせじ
なほざりに 頼め置くめる 一ことを 尽きせぬ音にや かけて偲ばむ
逢ふまでの かたみに契る 中の緒の 調べはことに 変はらざらなむ
うち捨てて 立つも悲しき 浦波の 名残いかにと 思ひやるかな
年経つる 苫屋も荒れて 憂き波の 返る方にや 身をたぐへまし
寄る波に 立ちかさねたる 旅衣 しほどけしとや 人の厭はむ
かたみにぞ 換ふべかりける 逢ふことの 日数隔てむ 中の衣を
世をうみに ここらしほじむ 身となりて なほこの岸を えこそ離れね
都出でし 春の嘆きに 劣らめや 年経る浦を 別れぬる秋
わたつ海に しなえうらぶれ 蛭の児の 脚立たざりし 年は経にけり
宮柱 めぐりあひける 時しあれば 別れし春の 恨み残すな
嘆きつつ 明石の浦に 朝霧の 立つやと人を 思ひやるかな
須磨の浦に 心を寄せし 舟人の やがて朽たせる 袖を見せばや
帰りては かことやせまし 寄せたりし 名残に袖の 干がたかりしを
澪標(17首)
かねてより 隔てぬ仲と ならはねど 別れは惜しき ものにぞありける
うちつけの 別れを惜しむ かことにて 思はむ方に 慕ひやはせぬ
いつしかも 袖うちかけむ をとめ子が 世を経て撫づる 岩の生ひ先
ひとりして 撫づるは袖の ほどなきに 覆ふばかりの 蔭をしぞ待つ
思ふどち なびく方には あらずとも われぞ煙に 先立ちなまし
誰れにより 世を海山に 行きめぐり 絶えぬ涙に 浮き沈む身ぞ
海松や 時ぞともなき 蔭にゐて 何のあやめも いかにわくらむ
数ならぬ み島隠れに 鳴く鶴を 今日もいかにと 問ふ人ぞなき
水鶏だに おどろかさずは いかにして 荒れたる宿に月を入れまし
おしなべて たたく水鶏に おどろかば うはの空なる 月もこそ入れ
住吉の 松こそものは かなしけれ 神代のことを かけて思へば
荒かりし 波のまよひに 住吉の 神をばかけて 忘れやはする
みをつくし 恋ふるしるしに ここまでも めぐり逢ひける えには深しな
数ならで 難波のことも かひなきに などみをつくし 思ひそめけむ
露けさの 昔に似たる 旅衣 田蓑の島の 名には隠れず
降り乱れ ひまなき空に 亡き人の 天翔るらむ 宿ぞ悲しき
消えがてに ふるぞ悲しき かきくらし わが身それとも 思ほえぬ世に
蓬生(6首)
絶ゆまじき 筋を頼みし 玉かづら 思ひのほかに かけ離れぬる
玉かづら 絶えてもやまじ 行く道の 手向の神も かけて誓はむ
亡き人を 恋ふる袂の ひまなきに 荒れたる軒の しづくさへ添ふ
尋ねても 我こそ訪はめ 道もなく 深き蓬の もとの心を
藤波の うち過ぎがたく 見えつるは 松こそ宿の しるしなりけれ
年を経て 待つしるしなき わが宿を 花のたよりに 過ぎぬばかりか
関屋(3首)
行くと来と せき止めがたき 涙をや 絶えぬ清水と 人は見るらむ
わくらばに 行き逢ふ道を 頼みしも なほかひなしや 潮ならぬ海
逢坂の 関やいかなる 関なれば しげき嘆きの 仲を分くらむ
絵合(9首)
別れ路に 添へし小櫛を かことにて 遥けき仲と 神やいさめし
別るとて 遥かに言ひし 一言も かへりてものは 今ぞ悲しき
一人ゐて 嘆きしよりは 海人の住む かたをかくてぞ 見るべかりける
憂きめ見し その折よりも 今日はまた 過ぎにしかたに かへる涙か
伊勢の海の 深き心を たどらずて ふりにし跡と 波や消つべき
雲の上に 思ひのぼれる 心には 千尋の底も はるかにぞ見る
みるめこそ うらふりぬらめ 年経にし 伊勢をの海人の 名をや沈めむ
身こそかく しめの外なれ そのかみの 心のうちを 忘れしもせず
しめのうちは 昔にあらぬ 心地して 神代のことも 今ぞ恋しき
松風(16首)
行く先を はるかに祈る 別れ路に 堪へぬは老いの 涙なりけり
もろともに 都は出で来 このたびや ひとり野中の 道に惑はむ
いきてまた あひ見むことを いつとてか 限りも知らぬ 世をば頼まむ
かの岸に 心寄りにし 海人舟の 背きし方に 漕ぎ帰るかな
いくかへり 行きかふ秋を 過ぐしつつ 浮木に乗りて われ帰るらむ
身を変へて 一人帰れる 山里に 聞きしに似たる 松風ぞ吹く
故里に 見し世の友を 恋ひわびて さへづることを 誰れか分くらむ
住み馴れし 人は帰りて たどれども 清水は宿の 主人顔なる
いさらゐは はやくのことも 忘れじを もとの主人や 面変はりせる
契りしに 変はらぬ琴の 調べにて 絶えぬ心の ほどは知りきや
変はらじと 契りしことを 頼みにて 松の響きに 音を添へしかな
月のすむ 川のをちなる 里なれば 桂の影は のどけかるらむ
久方の 光に近き 名のみして 朝夕霧も 晴れぬ山里
めぐり来て 手に取るばかり さやけきや 淡路の島の あはと見し月
浮雲に しばしまがひし 月影の すみはつる夜ぞ のどけかるべき
雲の上の すみかを捨てて 夜半の月 いづれの谷に かげ隠しけむ
薄雲(10首)
雪深み 深山の道は 晴れずとも なほ文かよへ 跡絶えずして
雪間なき 吉野の山を 訪ねても 心のかよふ 跡絶えめやは
末遠き 二葉の松に 引き別れ いつか木高き かげを見るべき
生ひそめし 根も深ければ 武隈の 松に小松の 千代をならべむ
舟とむる 遠方人の なくはこそ 明日帰り来む 夫と待ち見め
行きて見て 明日もさね来む なかなかに 遠方人は 心置くとも
入り日さす 峰にたなびく 薄雲は もの思ふ袖に 色やまがへる
君もさは あはれを交はせ 人知れず わが身にしむる 秋の夕風
漁りせし 影忘られぬ 篝火は 身の浮舟や 慕ひ来にけむ
浅からぬ したの思ひを 知らねばや なほ篝火の 影は騒げる
朝顔(13首)
人知れず 神の許しを 待ちし間に ここらつれなき 世を過ぐすかな
なべて世の あはればかりを 問ふからに 誓ひしことと 神やいさめむ
見し折の つゆ忘られぬ 朝顔の 花の盛りは 過ぎやしぬらむ
秋果てて 霧の籬に むすぼほれ あるかなきかに 移る朝顔
いつのまに 蓬がもとと むすぼほれ 雪降る里と 荒れし垣根ぞ
年経れど この契りこそ 忘られね 親の親とか 言ひし一言
身を変へて 後も待ち見よ この世にて 親を忘るる ためしありやと
つれなさを 昔に懲りぬ 心こそ 人のつらきに 添へてつらけれ
あらためて 何かは見えむ 人のうへに かかりと聞きし 心変はりを
氷閉ぢ 石間の水は 行きなやみ 空澄む月の 影ぞ流るる
かきつめて 昔恋しき 雪もよに あはれを添ふる 鴛鴦の浮寝か
とけて寝ぬ 寝覚さびしき 冬の夜に むすぼほれつる 夢の短さ
亡き人を 慕ふ心に まかせても 影見ぬ三つの 瀬にや惑はむ
少女(16首)
かけきやは 川瀬の波も たちかへり 君が禊の 藤のやつれを
藤衣 着しは昨日と 思ふまに 今日は禊の 瀬にかはる世を
さ夜中に 友呼びわたる 雁が音に うたて吹き添ふ 荻の上風
くれなゐの 涙に深き 袖の色を 浅緑にや 言ひしをるべき
いろいろに 身の憂きほどの 知らるるは いかに染めける 中の衣ぞ
霜氷 うたてむすべる 明けぐれの 空かきくらし 降る涙かな
天にます 豊岡姫の 宮人も わが心ざす しめを忘るな
乙女子も 神さびぬらし 天つ袖 古き世の友 よはひ経ぬれば
かけて言へば 今日のこととぞ 思ほゆる 日蔭の霜の 袖にとけしも
日影にも しるかりけめや 少女子が 天の羽袖に かけし心は
鴬の さへづる声は 昔にて 睦れし花の 蔭ぞ変はれる
九重を 霞隔つる すみかにも 春と告げくる 鴬の声
いにしへを 吹き伝へたる 笛竹に さへづる鳥の 音さへ変はらぬ
鴬の 昔を恋ひて さへづるは 木伝ふ花の 色やあせたる
心から 春まつ園は わが宿の 紅葉を風の つてにだに見よ
風に散る 紅葉は軽し 春の色を 岩根の松に かけてこそ見め
玉鬘(14首)
舟人も たれを恋ふとか 大島の うらがなしげに 声の聞こゆる
来し方も 行方も知らぬ 沖に出でて あはれいづくに 君を恋ふらむ
君にもし 心違はば 松浦なる 鏡の神を かけて誓はむ
年を経て 祈る心の 違ひなば 鏡の神を つらしとや見む
浮島を 漕ぎ離れても 行く方や いづく泊りと 知らずもあるかな
行く先も 見えぬ波路に 舟出して 風にまかする 身こそ浮きたれ
憂きことに 胸のみ騒ぐ 響きには 響の灘も さはらざりけり
二本の 杉のたちどを 尋ねずは 古川野辺に 君を見ましや
初瀬川 はやくのことは 知らねども 今日の逢ふ瀬に 身さへ流れぬ
知らずとも 尋ねて知らむ 三島江に 生ふる三稜の 筋は絶えじを
数ならぬ 三稜や何の 筋なれば 憂きにしもかく 根をとどめけむ
恋ひわたる 身はそれなれど 玉かづら いかなる筋を 尋ね来つらむ
着てみれば 恨みられけり 唐衣 返しやりてむ 袖を濡らして
返さむと 言ふにつけても 片敷の 夜の衣を 思ひこそやれ
初音(6首)
薄氷 解けぬる池の 鏡には 世に曇りなき 影ぞ並べる
曇りなき 池の鏡に よろづ代を すむべき影ぞ しるく見えける
年月を 松にひかれて 経る人に 今日鴬の 初音聞かせよ
ひき別れ 年は経れども 鴬の 巣立ちし松の 根を忘れめや
めづらしや 花のねぐらに 木づたひて 谷の古巣を 訪へる鴬
ふるさとの 春の梢に 訪ね来て 世の常ならぬ 花を見るかな
胡蝶(14首)
風吹けば 波の花さへ 色見えて こや名に立てる 山吹の崎
春の池や 井手の川瀬に かよふらむ 岸の山吹 そこも匂へり
亀の上の 山も尋ねじ 舟のうちに 老いせぬ名をば ここに残さむ
春の日の うららにさして ゆく舟は 棹のしづくも 花ぞ散りける
紫の ゆゑに心を しめたれば 淵に身投げむ 名やは惜しけき
淵に身を 投げつべしやと この春は 花のあたりを 立ち去らで見よ
花園の 胡蝶をさへや 下草に 秋待つ虫は うとく見るらむ
胡蝶にも 誘はれなまし 心ありて 八重山吹を 隔てざりせば
思ふとも 君は知らじな わきかへり 岩漏る水に 色し見えねば
ませのうちに 根深く植ゑし 竹の子の おのが世々にや 生ひわかるべき
今さらに いかならむ世か 若竹の 生ひ始めけむ 根をば尋ねむ
橘の 薫りし袖に よそふれば 変はれる身とも 思ほえぬかな
袖の香を よそふるからに 橘の 身さへはかなく なりもこそすれ
うちとけて 寝も見ぬものを 若草の ことあり顔に むすぼほるらむ
蛍(8首)
鳴く声も 聞こえぬ虫の 思ひだに 人の消つには 消ゆるものかは
声はせで 身をのみ焦がす 蛍こそ 言ふよりまさる 思ひなるらめ
今日さへや 引く人もなき 水隠れに 生ふる菖蒲の 根のみ泣かれむ
あらはれて いとど浅くも 見ゆるかな 菖蒲もわかず 泣かれける根の
その駒も すさめぬ草と 名に立てる 汀の菖蒲 今日や引きつる
鳰鳥に 影をならぶる 若駒は いつか菖蒲に 引き別るべき
思ひあまり 昔の跡を 訪ぬれど 親に背ける 子ぞたぐひなき
古き跡を 訪ぬれどげに なかりけり この世にかかる 親の心は
常夏(4首)
撫子の とこなつかしき 色を見ば もとの垣根を 人や尋ねむ
山賤の 垣ほに生ひし 撫子の もとの根ざしを 誰れか尋ねむ
草若み 常陸の浦の いかが崎 いかであひ見む 田子の浦波
常陸なる 駿河の海の 須磨の浦に 波立ち出でよ 筥崎の松
篝火(2首)
篝火に たちそふ恋の 煙こそ 世には絶えせぬ 炎なりけれ
行方なき 空に消ちてよ 篝火の たよりにたぐふ 煙とならば
野分(4首)
おほかたに 荻の葉過ぐる 風の音も 憂き身ひとつに しむ心地して
吹き乱る 風のけしきに 女郎花 しをれしぬべき 心地こそすれ
下露に なびかましかば 女郎花 荒き風には しをれざらまし
風騒ぎ むら雲まがふ 夕べにも 忘るる間なく 忘られぬ君
行幸(9首)
雪深き 小塩山に たつ雉の 古き跡をも 今日は尋ねよ
小塩山 深雪積もれる 松原に 今日ばかりなる 跡やなからむ
うちきらし 朝ぐもりせし 行幸には さやかに空の 光やは見し
あかねさす 光は空に 曇らぬを などて行幸に 目をきらしけむ
ふたかたに 言ひもてゆけば 玉櫛笥 わが身はなれぬ 懸子なりけり
わが身こそ 恨みられけれ 唐衣 君が袂に 馴れずと思へば
唐衣 また唐衣 唐衣 かへすがへすも 唐衣なる
恨めしや 沖つ玉藻を かづくまで 磯がくれける 海人の心よ
よるべなみ かかる渚に うち寄せて 海人も尋ねぬ 藻屑とぞ見し
藤袴(8首)
同じ野の 露にやつるる 藤袴 あはれはかけよ かことばかりも
尋ぬるに はるけき野辺の 露ならば 薄紫や かことならまし
妹背山 深き道をば 尋ねずて 緒絶の橋に 踏み迷ひける
惑ひける 道をば知らず 妹背山 たどたどしくぞ 誰も踏み見し
数ならば 厭ひもせまし 長月に 命をかくる ほどぞはかなき
朝日さす 光を見ても 玉笹の 葉分けの霜を 消たずもあらなむ
忘れなむと 思ふもものの 悲しきを いかさまにして いかさまにせむ
心もて 光に向かふ 葵だに 朝おく霜を おのれやは消つ
真木柱(21首)
おりたちて 汲みは見ねども 渡り川 人の瀬とはた 契らざりしを
みつせ川 渡らぬさきに いかでなほ 涙の澪の 泡と消えなむ
心さへ 空に乱れし 雪もよに ひとり冴えつる 片敷の袖
ひとりゐて 焦がるる胸の 苦しきに 思ひあまれる 炎とぞ見し
憂きことを 思ひ騒げば さまざまに くゆる煙ぞ いとど立ちそふ
今はとて 宿かれぬとも 馴れ来つる 真木の柱は われを忘るな
馴れきとは 思ひ出づとも 何により 立ちとまるべき 真木の柱ぞ
浅けれど 石間の水は 澄み果てて 宿もる君や かけ離るべき
ともかくも 岩間の水の 結ぼほれ かけとむべくも 思ほえぬ世を
深山木に 羽うち交はし ゐる鳥の またなくねたき 春にもあるかな
などてかく 灰あひがたき 紫を 心に深く 思ひそめけむ
いかならむ 色とも知らぬ 紫を 心してこそ 人は染めけれ
九重に 霞隔てば 梅の花 ただ香ばかりも 匂ひ来じとや
香ばかりは 風にもつてよ 花の枝に 立ち並ぶべき 匂ひなくとも
かきたれて のどけきころの 春雨に ふるさと人を いかに偲ぶや
眺めする 軒の雫に 袖ぬれて うたかた人を 偲ばざらめや
思はずに 井手の中道 隔つとも 言はでぞ恋ふる 山吹の花
同じ巣に かへりしかひの 見えぬかな いかなる人か 手ににぎるらむ
巣隠れて 数にもあらぬ かりの子を いづ方にかは 取り隠すべき
沖つ舟 よるべ波路に 漂はば 棹さし寄らむ 泊り教へよ
よるべなみ 風の騒がす 舟人も 思はぬ方に 磯伝ひせず
梅枝(11首)
花の香は 散りにし枝に とまらねど うつらむ袖に 浅くしまめや
花の枝に いとど心を しむるかな 人のとがめむ 香をばつつめど
鴬の 声にやいとど あくがれむ 心しめつる 花のあたりに
色も香も うつるばかりに この春は 花咲く宿を かれずもあらなむ
鴬の ねぐらの枝も なびくまで なほ吹きとほせ 夜半の笛竹
心ありて 風の避くめる 花の木に とりあへぬまで 吹きや寄るべき
霞だに 月と花とを 隔てずは ねぐらの鳥も ほころびなまし
花の香を えならぬ袖に うつしもて ことあやまりと 妹やとがめむ
めづらしと 故里人も 待ちぞ見む 花の錦を 着て帰る君
つれなさは 憂き世の常に なりゆくを 忘れぬ人や 人にことなる
限りとて 忘れがたきを 忘るるも こや世になびく 心なるらむ
藤裏葉(20首)
わが宿の 藤の色濃き たそかれに 尋ねやは来ぬ 春の名残を
なかなかに 折りやまどはむ 藤の花 たそかれ時の たどたどしくは
紫に かことはかけむ 藤の花 まつより過ぎて うれたけれども
いく返り 露けき春を 過ぐし来て 花の紐解く 折にあふらむ
たをやめの 袖にまがへる 藤の花 見る人からや 色もまさらむ
浅き名を 言ひ流しける 河口は いかが漏らしし 関の荒垣
漏りにける 岫田の関を 河口の 浅きにのみは おほせざらなむ
とがむなよ 忍びにしぼる 手もたゆみ 今日あらはるる 袖のしづくを
何とかや 今日のかざしよ かつ見つつ おぼめくまでも なりにけるかな
かざしても かつたどらるる 草の名は 桂を折りし 人や知るらむ
浅緑 若葉の菊を 露にても 濃き紫の 色とかけきや
双葉より 名立たる園の 菊なれば 浅き色わく 露もなかりき
なれこそは 岩守るあるじ 見し人の 行方は知るや 宿の真清水
亡き人の 影だに見えず つれなくて 心をやれる いさらゐの水
そのかみの 老木はむべも 朽ちぬらむ 植ゑし小松も 苔生ひにけり
いづれをも 蔭とぞ頼む 双葉より 根ざし交はせる 松の末々
色まさる 籬の菊も 折々に 袖うちかけし 秋を恋ふらし
紫の 雲にまがへる 菊の花 濁りなき世の 星かとぞ見る
秋をへて 時雨ふりぬる 里人も かかる紅葉の 折をこそ見ね
世の常の 紅葉とや見る いにしへの ためしにひける 庭の錦を
若菜上(24首)
さしながら 昔を今に 伝ふれば 玉の小櫛ぞ 神さびにける
さしつぎに 見るものにもが 万世を 黄楊の小櫛の 神さぶるまで
若葉さす 野辺の小松を 引き連れて もとの岩根を 祈る今日かな
小松原 末の齢に 引かれてや 野辺の若菜も 年を摘むべき
目に近く 移れば変はる 世の中を 行く末遠く 頼みけるかな
命こそ 絶ゆとも絶えめ 定めなき 世の常ならぬ 仲の契りを
中道を 隔つるほどは なけれども 心乱るる 今朝のあは雪
はかなくて うはの空にぞ 消えぬべき 風にただよふ 春のあは雪
背きにし この世に残る 心こそ 入る山路の ほだしなりけれ
背く世の うしろめたくは さりがたき ほだしをしひて かけな離れそ
年月を なかに隔てて 逢坂の さも塞きがたく 落つる涙か
涙のみ 塞きとめがたき 清水にて ゆき逢ふ道は はやく絶えにき
沈みしも 忘れぬものを こりずまに 身も投げつべき 宿の藤波
身を投げむ 淵もまことの 淵ならで かけじやさらに こりずまの波
身に近く 秋や来ぬらむ 見るままに 青葉の山も 移ろひにけり
水鳥の 青羽は色も 変はらぬを 萩の下こそ けしきことなれ
老の波 かひある浦に 立ち出でて しほたるる海人を 誰れかとがめむ
しほたるる 海人を波路の しるべにて 尋ねも見ばや 浜の苫屋を
世を捨てて 明石の浦に 住む人も 心の闇は はるけしもせじ
光出でむ 暁近く なりにけり 今ぞ見し世の 夢語りする
いかなれば 花に木づたふ 鴬の 桜をわきて ねぐらとはせぬ
深山木に ねぐら定むる はこ鳥も いかでか花の 色に飽くべき
よそに見て 折らぬ嘆きは しげれども なごり恋しき 花の夕かげ
いまさらに 色にな出でそ 山桜 およばぬ枝に 心かけきと
若菜下(18首)
恋ひわぶる 人のかたみと 手ならせば なれよ何とて 鳴く音なるらむ
誰れかまた 心を知りて 住吉の 神代を経たる 松にこと問ふ
住の江を いけるかひある 渚とは 年経る尼も 今日や知るらむ
昔こそ まづ忘られね 住吉の 神のしるしを 見るにつけても
住の江の 松に夜深く 置く霜は 神の掛けたる 木綿鬘かも
神人の 手に取りもたる 榊葉に 木綿かけ添ふる 深き夜の霜
祝子が 木綿うちまがひ 置く霜は げにいちじるき 神のしるしか
起きてゆく 空も知られぬ 明けぐれに いづくの露の かかる袖なり
明けぐれの 空に憂き身は 消えななむ 夢なりけりと 見てもやむべく
悔しくぞ 摘み犯しける 葵草 神の許せる かざしならぬに
もろかづら 落葉を何に 拾ひけむ 名は睦ましき かざしなれども
わが身こそ あらぬさまなれ それながら そらおぼれする 君は君なり
消え止まる ほどやは経べき たまさかに 蓮の露の かかるばかりを
契り置かむ この世ならでも 蓮葉に 玉ゐる露の 心隔つな
夕露に 袖濡らせとや ひぐらしの 鳴くを聞く聞く 起きて行くらむ
待つ里も いかが聞くらむ 方がたに 心騒がす ひぐらしの声
海人の世を よそに聞かめや 須磨の浦に 藻塩垂れしも 誰れならなくに
海人舟に いかがは思ひ おくれけむ 明石の浦に いさりせし君
柏木(11首)
今はとて 燃えむ煙も むすぼほれ 絶えぬ思ひの なほや残らむ
立ち添ひて 消えやしなまし 憂きことを 思ひ乱るる 煙比べに
行方なき 空の煙と なりぬとも 思ふあたりを 立ちは離れじ
誰が世にか 種は蒔きしと 人問はば いかが岩根の 松は答へむ
時しあれば 変はらぬ色に 匂ひけり 片枝枯れにし 宿の桜も
この春は 柳の芽にぞ 玉はぬく 咲き散る花の 行方知らねば
木の下の 雫に濡れて さかさまに 霞の衣 着たる春かな
亡き人も 思はざりけむ うち捨てて 夕べの霞 君着たれとは
恨めしや 霞の衣 誰れ着よと 春よりさきに 花の散りけむ
ことならば 馴らしの枝に ならさなむ 葉守の神の 許しありきと
柏木に 葉守の神は まさずとも 人ならすべき 宿の梢か
横笛(8首)
世を別れ 入りなむ道は おくるとも 同じところを 君も尋ねよ
憂き世には あらぬところの ゆかしくて 背く山路に 思ひこそ入れ
憂き節も 忘れずながら 呉竹の こは捨て難き ものにぞありける
ことに出でて 言はぬも言ふに まさるとは 人に恥ぢたる けしきをぞ見る
深き夜の あはればかりは 聞きわけど ことより顔に えやは弾きける
露しげき むぐらの宿に いにしへの 秋に変はらぬ 虫の声かな
横笛の 調べはことに 変はらぬを むなしくなりし 音こそ尽きせね
笛竹に 吹き寄る風の ことならば 末の世長き ねに伝へなむ
鈴虫(6首)
蓮葉を 同じ台と 契りおきて 露の分かるる 今日ぞ悲しき
隔てなく 蓮の宿を 契りても 君が心や 住まじとすらむ
おほかたの 秋をば憂しと 知りにしを ふり捨てがたき 鈴虫の声
心もて 草の宿りを 厭へども なほ鈴虫の 声ぞふりせぬ
雲の上を かけ離れたる すみかにも もの忘れせぬ 秋の夜の月
月影は 同じ雲居に 見えながら わが宿からの 秋ぞ変はれる
夕霧(26首)
山里の あはれを添ふる 夕霧に 立ち出でむ空も なき心地して
山賤の 籬をこめて 立つ霧も 心そらなる 人はとどめず
我のみや 憂き世を知れる ためしにて 濡れそふ袖の 名を朽たすべき
おほかたは 我濡衣を 着せずとも 朽ちにし袖の 名やは隠るる
荻原や 軒端の露に そぼちつつ 八重立つ霧を 分けぞ行くべき
分け行かむ 草葉の露を かことにて なほ濡衣を かけむとや思ふ
魂を つれなき袖に 留めおきて わが心から 惑はるるかな
せくからに 浅さぞ見えむ 山川の 流れての名を つつみ果てずは
女郎花 萎るる野辺を いづことて 一夜ばかりの 宿を借りけむ
秋の野の 草の茂みは 分けしかど 仮寝の枕 結びやはせし
あはれをも いかに知りてか 慰めむ あるや恋しき 亡きや悲しき
いづれとか 分きて眺めむ 消えかへる 露も草葉の うへと見ぬ世を
里遠み 小野の篠原 わけて来て 我も鹿こそ 声も惜しまね
藤衣 露けき秋の 山人は 鹿の鳴く音に 音をぞ添へつる
見し人の 影澄み果てぬ 池水に ひとり宿守る 秋の夜の月
いつとかは おどろかすべき 明けぬ夜の 夢覚めてとか 言ひしひとこと
朝夕に 泣く音を立つる 小野山は 絶えぬ涙や 音無の滝
のぼりにし 峰の煙に たちまじり 思はぬ方に なびかずもがな
恋しさの 慰めがたき 形見にて 涙にくもる 玉の筥かな
怨みわび 胸あきがたき 冬の夜に また鎖しまさる 関の岩門
馴るる身を 恨むるよりは 松島の 海人の衣に 裁ちやかへまし
松島の 海人の濡衣 なれぬとて 脱ぎ替へつてふ 名を立ためやは
契りあれや 君を心に とどめおきて あはれと思ふ 恨めしと聞く
何ゆゑか 世に数ならぬ 身ひとつを 憂しとも思ひ かなしとも聞く
数ならば 身に知られまし 世の憂さを 人のためにも 濡らす袖かな
人の世の 憂きをあはれと 見しかども 身にかへむとは 思はざりしを
御法(12首)
惜しからぬ この身ながらも かぎりとて 薪尽きなむ ことの悲しさ
薪こる 思ひは今日を 初めにて この世に願ふ 法ぞはるけき
絶えぬべき 御法ながらぞ 頼まるる 世々にと結ぶ 中の契りを
結びおく 契りは絶えじ おほかたの 残りすくなき 御法なりとも
おくと見る ほどぞはかなき ともすれば 風に乱るる 萩のうは露
ややもせば 消えをあらそふ 露の世に 後れ先だつ ほど経ずもがな
秋風に しばしとまらぬ 露の世を 誰れか草葉の うへとのみ見む
いにしへの 秋の夕べの 恋しきに 今はと見えし 明けぐれの夢
いにしへの 秋さへ今の 心地して 濡れにし袖に 露ぞおきそふ
露けさは 昔今とも おもほえず おほかた秋の 夜こそつらけれ
枯れ果つる 野辺を憂しとや 亡き人の 秋に心を とどめざりけむ
昇りにし 雲居ながらも かへり見よ われ飽きはてぬ 常ならぬ世に
幻(26首)
わが宿は 花もてはやす 人もなし 何にか春の たづね来つらむ
香をとめて 来つるかひなく おほかたの 花のたよりと 言ひやなすべき
憂き世には 雪消えなむと 思ひつつ 思ひの外に なほぞほどふる
植ゑて見し 花のあるじも なき宿に 知らず顔にて 来ゐる鴬
今はとて 荒らしや果てむ 亡き人の 心とどめし 春の垣根を
なくなくも 帰りにしかな 仮の世は いづこもつひの 常世ならぬに
雁がゐし 苗代水の 絶えしより 映りし花の 影をだに見ず
夏衣 裁ち替へてける 今日ばかり 古き思ひも すすみやはせぬ
羽衣の 薄きに変はる 今日よりは 空蝉の世ぞ いとど悲しき
さもこそは よるべの水に 水草ゐめ 今日のかざしよ 名さへ忘るる
おほかたは 思ひ捨ててし 世なれども 葵はなほや 摘みをかすべき
亡き人を 偲ぶる宵の 村雨に 濡れてや来つる 山ほととぎす
ほととぎす 君につてなむ ふるさとの 花橘は 今ぞ盛りと
つれづれと わが泣き暮らす 夏の日を かことがましき 虫の声かな
夜を知る 蛍を見ても 悲しきは 時ぞともなき 思ひなりけり
七夕の 逢ふ瀬は雲の よそに見て 別れの庭に 露ぞおきそふ
君恋ふる 涙は際も なきものを 今日をば何の 果てといふらむ
人恋ふる わが身も末に なりゆけど 残り多かる 涙なりけり
もろともに おきゐし菊の 白露も 一人袂に かかる秋かな
大空を かよふ幻 夢にだに 見えこぬ魂の 行方たづねよ
宮人は 豊明と いそぐ今日 日影も知らで 暮らしつるかな
死出の山 越えにし人を 慕ふとて 跡を見つつも なほ惑ふかな
かきつめて 見るもかひなし 藻塩草 同じ雲居の 煙とをなれ
春までの 命も知らず 雪のうちに 色づく梅を 今日かざしてむ
千世の春 見るべき花と 祈りおきて わが身ぞ雪と ともにふりぬる
もの思ふと 過ぐる月日も 知らぬまに 年もわが世も 今日や尽きぬる
匂宮(1首)
おぼつかな 誰れに問はまし いかにして 初めも果ても 知らぬわが身ぞ
紅梅(4首)
心ありて 風の匂はす 園の梅に まづ鴬の 訪はずやあるべき
花の香に 誘はれぬべき 身なりせば 風のたよりを 過ぐさましやは
本つ香の 匂へる君が 袖触れば 花もえならぬ 名をや散らさむ
花の香を 匂はす宿に 訪めゆかば 色にめづとや 人の咎めむ
竹河(24首)
折りて見ば いとど匂ひも まさるやと すこし色めけ 梅の初花
よそにては もぎ木なりとや 定むらむ 下に匂へる 梅の初花
人はみな 花に心を 移すらむ 一人ぞ惑ふ 春の夜の闇
をりからや あはれも知らむ 梅の花 ただ香ばかりに 移りしもせじ
竹河の 橋うちいでし 一節に 深き心の 底は知りきや
竹河に 夜を更かさじと いそぎしも いかなる節を 思ひおかまし
桜ゆゑ 風に心の 騒ぐかな 思ひぐまなき 花と見る見る
咲くと見て かつは散りぬる 花なれば 負くるを深き 恨みともせず
風に散る ことは世の常 枝ながら 移ろふ花を ただにしも見じ
心ありて 池のみぎはに 落つる花 あわとなりても わが方に寄れ
大空の 風に散れども 桜花 おのがものとぞ かきつめて見る
桜花 匂ひあまたに 散らさじと おほふばかりの 袖はありやは
つれなくて 過ぐる月日を かぞへつつ もの恨めしき 暮の春かな
いでやなぞ 数ならぬ身に かなはぬは 人に負けじの 心なりけり
わりなしや 強きによらむ 勝ち負けを 心一つに いかがまかする
あはれとて 手を許せかし 生き死にを 君にまかする わが身とならば
花を見て 春は暮らしつ 今日よりや しげき嘆きの 下に惑はむ
今日ぞ知る 空を眺むる けしきにて 花に心を 移しけりとも
あはれてふ 常ならぬ世の 一言も いかなる人に かくるものぞは
生ける世の 死には心に まかせねば 聞かでややまむ 君が一言
手にかくる ものにしあらば 藤の花 松よりまさる 色を見ましや
紫の 色はかよへど 藤の花 心にえこそ かからざりけれ
竹河の その夜のことは 思ひ出づや しのぶばかりの 節はなけれど
流れての 頼めむなしき 竹河に 世は憂きものと 思ひ知りにき
橋姫(13首)
うち捨てて つがひ去りにし 水鳥の 仮のこの世に たちおくれけむ
いかでかく 巣立ちけるぞと 思ふにも 憂き水鳥の 契りをぞ知る
泣く泣くも 羽うち着する 君なくは われぞ巣守に なりは果てまし
見し人も 宿も煙に なりにしを 何とてわが身 消え残りけむ
世を厭ふ 心は山に かよへども 八重立つ雲を 君や隔つる
あと絶えて 心澄むとは なけれども 世を宇治山に 宿をこそ借れ
山おろしに 耐へぬ木の葉の 露よりも あやなくもろき わが涙かな
あさぼらけ 家路も見えず 尋ね来し 槙の尾山は 霧こめてけり
雲のゐる 峰のかけ路を 秋霧の いとど隔つる ころにもあるかな
橋姫の 心を汲みて 高瀬さす 棹のしづくに 袖ぞ濡れぬる
さしかへる 宇治の河長 朝夕の しづくや袖を 朽たし果つらむ
目の前に この世を背く 君よりも よそに別るる 魂ぞ悲しき
命あらば それとも見まし 人知れぬ 岩根にとめし 松の生ひ末
椎本(21首)
山風に 霞吹きとく 声はあれど 隔てて見ゆる 遠方の白波
遠方こちの 汀に波は 隔つとも なほ吹きかよへ 宇治の川風
山桜 匂ふあたりに 尋ね来て 同じかざしを 折りてけるかな
かざし折る 花のたよりに 山賤の 垣根を過ぎぬ 春の旅人
われなくて 草の庵は 荒れぬとも このひとことは かれじとぞ思ふ
いかならむ 世にかかれせむ 長き世の 契りむすべる 草の庵は
牡鹿鳴く 秋の山里 いかならむ 小萩が露の かかる夕暮
涙のみ 霧りふたがれる 山里は 籬に鹿ぞ 諸声に鳴く
朝霧に 友まどはせる 鹿の音を おほかたにやは あはれとも聞く
色変はる 浅茅を見ても 墨染に やつるる袖を 思ひこそやれ
色変はる 袖をば露の 宿りにて わが身ぞさらに 置き所なき
秋霧の 晴れぬ雲居に いとどしく この世をかりと 言ひ知らすらむ
君なくて 岩のかけ道 絶えしより 松の雪をも なにとかは見る
奥山の 松葉に積もる 雪とだに 消えにし人を 思はましかば
雪深き 山のかけはし 君ならで またふみかよふ 跡を見ぬかな
つららとぢ 駒ふみしだく 山川を しるべしがてら まづや渡らむ
立ち寄らむ 蔭と頼みし 椎が本 空しき床に なりにけるかな
君が折る 峰の蕨と 見ましかば 知られやせまし 春のしるしも
雪深き 汀の小芹 誰がために 摘みかはやさむ 親なしにして
つてに見し 宿の桜を この春は 霞隔てず 折りてかざさむ
いづことか 尋ねて折らむ 墨染に 霞みこめたる 宿の桜を
総角(31首)
あげまきに 長き契りを 結びこめ 同じ所に 縒りも会はなむ
ぬきもあへず もろき涙の 玉の緒に 長き契りを いかが結ばむ
山里の あはれ知らるる 声々に とりあつめたる 朝ぼらけかな
鳥の音も 聞こえぬ山と 思ひしを 世の憂きことは 訪ね来にけり
おなじ枝を 分きて染めける 山姫に いづれか深き 色と問はばや
山姫の 染むる心は わかねども 移ろふ方や 深きなるらむ
女郎花 咲ける大野を ふせぎつつ 心せばくや しめを結ふらむ
霧深き 朝の原の 女郎花 心を寄せて 見る人ぞ見る
しるべせし 我やかへりて 惑ふべき 心もゆかぬ 明けぐれの道
かたがたに くらす心を 思ひやれ 人やりならぬ 道に惑はば
世の常に 思ひやすらむ 露深き 道の笹原 分けて来つるも
小夜衣 着て馴れきとは 言はずとも かことばかりは かけずしもあらじ
隔てなき 心ばかりは 通ふとも 馴れし袖とは かけじとぞ思ふ
中絶えむ ものならなくに 橋姫の 片敷く袖や 夜半に濡らさむ
絶えせじの わが頼みにや 宇治橋の 遥けきなかを 待ちわたるべき
いつぞやも 花の盛りに 一目見し 木のもとさへや 秋は寂しき
桜こそ 思ひ知らすれ 咲き匂ふ 花も紅葉も 常ならぬ世を
いづこより 秋は行きけむ 山里の 紅葉の蔭は 過ぎ憂きものを
見し人も なき山里の 岩垣に 心長くも 這へる葛かな
秋はてて 寂しさまさる 木のもとを 吹きな過ぐしそ 峰の松風
若草の ね見むものとは 思はねど むすぼほれたる 心地こそすれ
眺むるは 同じ雲居を いかなれば おぼつかなさを 添ふる時雨ぞ
霰降る 深山の里は 朝夕に 眺むる空も かきくらしつつ
霜さゆる 汀の千鳥 うちわびて 鳴く音悲しき 朝ぼらけかな
暁の 霜うち払ひ 鳴く千鳥 もの思ふ人の 心をや知る
かき曇り 日かげも見えぬ 奥山に 心をくらす ころにもあるかな
くれなゐに 落つる涙も かひなきは 形見の色を 染めぬなりけり
おくれじと 空ゆく月を 慕ふかな つひに住むべき この世ならねば
恋ひわびて 死ぬる薬の ゆかしきに 雪の山にや 跡を消なまし
来し方を 思ひ出づるも はかなきを 行く末かけて なに頼むらむ
行く末を 短きものと 思ひなば 目の前にだに 背かざらなむ
早蕨(15首)
君にとて あまたの春を 摘みしかば 常を忘れぬ 初蕨なり
この春は 誰れにか見せむ 亡き人の かたみに摘める 峰の早蕨
折る人の 心にかよふ 花なれや 色には出でず 下に匂へる
見る人に かこと寄せける 花の枝を 心してこそ 折るべかりけれ
はかなしや 霞の衣 裁ちしまに 花のひもとく 折も来にけり
見る人も あらしにまよふ 山里に 昔おぼゆる 花の香ぞする
袖ふれし 梅は変はらぬ 匂ひにて 根ごめ移ろふ 宿やことなる
さきに立つ 涙の川に 身を投げば 人におくれぬ 命ならまし
身を投げむ 涙の川に 沈みても 恋しき瀬々に 忘れしもせじ
人はみな いそぎたつめる 袖の浦に 一人藻塩を 垂るる海人かな
塩垂るる 海人の衣に 異なれや 浮きたる波に 濡るるわが袖
ありふれば うれしき瀬にも 逢ひけるを 身を宇治川に 投げてましかば
過ぎにしが 恋しきことも 忘れねど 今日はたまづも ゆく心かな
眺むれば 山より出でて 行く月も 世に住みわびて 山にこそ入れ
しなてるや 鳰の湖に 漕ぐ舟の まほならねども あひ見しものを
宿木(24首)
世の常の 垣根に匂ふ 花ならば 心のままに 折りて見ましを
霜にあへず 枯れにし園の 菊なれど 残りの色は あせずもあるかな
今朝の間の 色にや賞でむ 置く露の 消えぬにかかる 花と見る見る
よそへてぞ 見るべかりける 白露の 契りかおきし 朝顔の花
消えぬまに 枯れぬる花の はかなさに おくるる露は なほぞまされる
大空の 月だに宿る わが宿に 待つ宵過ぎて 見えぬ君かな
山里の 松の蔭にも かくばかり 身にしむ秋の 風はなかりき
女郎花 しをれぞまさる 朝露の いかに置きける 名残なるらむ
おほかたに 聞かましものを ひぐらしの 声恨めしき 秋の暮かな
うち渡し 世に許しなき 関川を みなれそめけむ 名こそ惜しけれ
深からず 上は見ゆれど 関川の 下の通ひは 絶ゆるものかは
いたづらに 分けつる道の 露しげみ 昔おぼゆる 秋の空かな
また人に 馴れける袖の 移り香を わが身にしめて 恨みつるかな
みなれぬる 中の衣と 頼めしを かばかりにてや かけ離れなむ
結びける 契りことなる 下紐を ただ一筋に 恨みやはする
宿り木と 思ひ出でずは 木のもとの 旅寝もいかに さびしからまし
荒れ果つる 朽木のもとを 宿りきと 思ひおきける ほどの悲しさ
穂に出でぬ もの思ふらし 篠薄 招く袂の 露しげくして
秋果つる 野辺のけしきも 篠薄 ほのめく風に つけてこそ知れ
すべらきの かざしに折ると 藤の花 及ばぬ枝に 袖かけてけり
よろづ世を かけて匂はむ 花なれば 今日をも飽かぬ 色とこそ見れ
君がため 折れるかざしは 紫の 雲に劣らぬ 花のけしきか
世の常の 色とも見えず 雲居まで たち昇りたる 藤波の花
貌鳥の 声も聞きしに かよふやと 茂みを分けて 今日ぞ尋ぬる
東屋(11首)
見し人の 形代ならば 身に添へて 恋しき瀬々の なでものにせむ
みそぎ河 瀬々に出ださむ なでものを 身に添ふ影と 誰れか頼まむ
しめ結ひし 小萩が上も 迷はぬに いかなる露に 映る下葉ぞ
宮城野の 小萩がもとと 知らませば 露も心を 分かずぞあらまし
ひたぶるに うれしからまし 世の中に あらぬ所と 思はましかば
憂き世には あらぬ所を 求めても 君が盛りを 見るよしもがな
絶え果てぬ 清水になどか 亡き人の 面影をだに とどめざりけむ
さしとむる 葎やしげき 東屋の あまりほど降る 雨そそきかな
形見ぞと 見るにつけては 朝露の ところせきまで 濡るる袖かな
宿り木は 色変はりぬる 秋なれど 昔おぼえて 澄める月かな
里の名も 昔ながらに 見し人の 面変はりせる 閨の月影
浮舟(22首)
まだ古りぬ 物にはあれど 君がため 深き心に 待つと知らなむ
長き世を 頼めてもなほ 悲しきは ただ明日知らぬ 命なりけり
心をば 嘆かざらまし 命のみ 定めなき世と 思はましかば
世に知らず 惑ふべきかな 先に立つ 涙も道を かきくらしつつ
涙をも ほどなき袖に せきかねて いかに別れを とどむべき身ぞ
宇治橋の 長き契りは 朽ちせじを 危ぶむ方に 心騒ぐな
絶え間のみ 世には危ふき 宇治橋を 朽ちせぬものと なほ頼めとや
年経とも 変はらむものか 橘の 小島の崎に 契る心は
橘の 小島の色は 変はらじを この浮舟ぞ 行方知られぬ
峰の雪 みぎはの氷 踏み分けて 君にぞ惑ふ 道は惑はず
降り乱れ みぎはに凍る 雪よりも 中空にてぞ 我は消ぬべき
眺めやる そなたの雲も 見えぬまで 空さへ暮るる ころのわびしさ
水まさる 遠方の里人 いかならむ 晴れぬ長雨に かき暮らすころ
里の名を わが身に知れば 山城の 宇治のわたりぞ いとど住み憂き
かき暮らし 晴れせぬ峰の 雨雲に 浮きて世をふる 身をもなさばや
つれづれと 身を知る雨の 小止まねば 袖さへいとど みかさまさりて
波越ゆる ころとも知らず 末の松 待つらむとのみ 思ひけるかな
いづくにか 身をば捨てむと 白雲の かからぬ山も 泣く泣くぞ行く
嘆きわび 身をば捨つとも 亡き影に 憂き名流さむ ことをこそ思へ
からをだに 憂き世の中に とどめずは いづこをはかと 君も恨みむ
後にまた あひ見むことを 思はなむ この世の夢に 心惑はで
鐘の音の 絶ゆる響きに 音を添へて わが世尽きぬと 君に伝へよ
蜻蛉(11首)
忍び音や 君も泣くらむ かひもなき 死出の田長に 心通はば
橘の 薫るあたりは ほととぎす 心してこそ 鳴くべかりけれ
我もまた 憂き古里を 荒れはてば 誰れ宿り木の 蔭をしのばむ
あはれ知る 心は人に おくれねど 数ならぬ身に 消えつつぞ経る
常なしと ここら世を見る 憂き身だに 人の知るまで 嘆きやはする
荻の葉に 露吹き結ぶ 秋風も 夕べぞわきて 身にはしみける
女郎花 乱るる野辺に 混じるとも 露のあだ名を 我にかけめや
花といへば 名こそあだなれ 女郎花 なべての露に 乱れやはする
旅寝して なほこころみよ 女郎花 盛りの色に 移り移らず
宿貸さば 一夜は寝なむ おほかたの 花に移らぬ 心なりとも
ありと見て 手にはとられず 見ればまた 行方も知らず 消えし蜻蛉
手習(28首)
身を投げし 涙の川の 早き瀬を しがらみかけて 誰れか止めし
我かくて 憂き世の中に めぐるとも 誰れかは知らむ 月の都に
あだし野の 風になびくな 女郎花 我しめ結はむ 道遠くとも
移し植ゑて 思ひ乱れぬ 女郎花 憂き世を背く 草の庵に
松虫の 声を訪ねて 来つれども また萩原の 露に惑ひぬ
秋の野の 露分け来たる 狩衣 葎茂れる 宿にかこつな
深き夜の 月をあはれと 見ぬ人や 山の端近き 宿に泊らぬ
山の端に 入るまで月を 眺め見む 閨の板間も しるしありやと
忘られぬ 昔のことも 笛竹の つらきふしにも 音ぞ泣かれける
笛の音に 昔のことも 偲ばれて 帰りしほども 袖ぞ濡れにし
はかなくて 世に古川の 憂き瀬には 尋ねも行かじ 二本の杉
古川の 杉のもとだち 知らねども 過ぎにし人に よそへてぞ見る
心には 秋の夕べを 分かねども 眺むる袖に 露ぞ乱るる
山里の 秋の夜深き あはれをも もの思ふ人は 思ひこそ知れ
憂きものと 思ひも知らで 過ぐす身を もの思ふ人と 人は知りけり
なきものに 身をも人をも 思ひつつ 捨ててし世をぞ さらに捨てつる
限りぞと 思ひなりにし 世の中を 返す返すも 背きぬるかな
岸遠く 漕ぎ離るらむ 海人舟に 乗り遅れじと 急がるるかな
心こそ 憂き世の岸を 離るれど 行方も知らぬ 海人の浮木を
木枯らしの 吹きにし山の 麓には 立ち隠すべき 蔭だにぞなき
待つ人も あらじと思ふ 山里の 梢を見つつ なほぞ過ぎ憂き
おほかたの 世を背きける 君なれど 厭ふによせて 身こそつらけれ
かきくらす 野山の雪を 眺めても 降りにしことぞ 今日も悲しき
山里の 雪間の若菜 摘みはやし なほ生ひ先の 頼まるるかな
雪深き 野辺の若菜も 今よりは 君がためにぞ 年も摘むべき
袖触れし 人こそ見えね 花の香の それかと匂ふ 春のあけぼの
見し人は 影も止まらぬ 水の上に 落ち添ふ涙 いとどせきあへず
尼衣 変はれる身にや ありし世の 形見に袖を かけて偲ばむ
夢浮橋(1首)
法の師と 尋ぬる道を しるべにて 思はぬ山に 踏み惑ふかな
折りたたむ
源氏物語の和歌の特徴
「源氏物語」は大長編小説であり、
作中には全795首の和歌が登場します。

和歌の種類は、

独詠歌
贈答歌
唱和歌
の3種類に分類されます。

独詠歌はひとりで詠む和歌、
贈答歌は2人の間でやり取りする和歌、
唱和歌は3人以上の人物が詠み交わす形式です。

理知的で真面目な性格であった
紫式部の作る和歌は、
ほとばし感情を表した名歌という領域には
達していないようです。

しかし、紫式部は古歌の知識が豊富であり、
古今集の和歌を踏まえた和歌などが
多く見られますし、
掛詞や縁語など技巧に富んだ和歌も散見されます。

「源氏物語」の中で最も
和歌が多く詠まれているのは「須磨」の巻です。

光源氏が都から須磨に流浪している間に
詠んだ都の人々との贈答歌や、
感傷にひたった光源氏の独詠歌などが
大きなボリュームを形成しています。

「源氏物語」のあらすじを知りたい方は、
こちらの記事が参考になります!

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